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理学部・理学研究科レジェンド

理学部・理学研究科の創設・発展に寄与したレジェンドを紹介します。

湯川秀樹について

湯川秀樹
(写真:大阪大学湯川記念室)

湯川秀樹博士(1907-1981)は1933年から1939年まで、大阪大学(旧大阪帝国大学)理学部の講師、助教授として物理学の研究に従事しました。湯川の中間子論はこのとき生まれ、論文「On the Interaction of Elementary Particles. I」(1934年11月)として発表されています。1949年、この研究により日本人として最初のノーベル賞を受賞しました。湯川は核力を説明するために新しい粒子(中間子)の存在を予言し、現代の素粒子物理学の幕を開きました。湯川について詳しく知りたい場合は、湯川記念室のホームページや『湯川秀樹博士と大阪大学 ノーベル賞はかくして生まれた』等をご覧ください。

「日本人として最初のノーベル賞に輝いた湯川秀樹の中間子論は、当時、大阪中之島にあった大阪大学(旧大阪帝国大学)理学部にて誕生し、この中間子論の論文により湯川秀樹は大阪大学より理学博士の学位を取得した。大阪帝国大学時代の湯川は凄まじかった。研究者、教育者として試行錯誤の格闘を繰り広げ、残されたものには独自の美意識が感じられる。こんな素晴らしい人、研究者がかつて大阪大学で躍動していた。」

大阪大学アーカイブズニューズレター、18号、細谷 裕より引用

「日本人初のノーベル賞受賞者として湯川秀樹は著名であるが、京都大学のイメージをお持ちの方も多いであろう。しかし、若き日の湯川は大阪帝国大学に奉職し、その時代の業績でノーベル賞を受賞し、大阪帝国大学から理学博士の学位を授与された。」

大阪大学アーカイブズニューズレター、18号、菅 真城より引用

年表

1929年(昭和4年) 22歳京都帝国大学理学部物理学科卒業。同大学理学部副手
1933年(昭和8年) 26歳大阪帝国大学理学部講師を兼ねる
1934年(昭和9年) 27歳大阪帝国大学理学部専任講師となる
1936年(昭和11年) 29歳大阪帝国大学助教授となり、理学部に勤務する
1938年(昭和13年) 31歳大阪帝国大学より理学博士の学位(第584号)を授与される
1939年(昭和14年) 5月京都帝国大学教授となり、理学部に勤務する
1950年(昭和25年) 43歳大阪大学名誉教授となる
1981年(昭和56年) 9月京都市下鴨の自宅で永眠

湯川秀樹 発表論文リスト

湯川記念室

大阪大学の湯川記念室は1953年に設立され当時の中之島の総長室の近隣にありました。1976年に、豊中地区の総合図書館6階に移設されました。2022年より湯川記念室は理学研究科に移管されましたが、その運営委員会は全学的な組織構成を維持しており、ホームページによる情報発信、講演、出版などの様々な活動を行なっています。

参考資料

南部陽一郎について

南部陽一郎
(写真:大阪大学大学院理学研究科)

南部陽一郎博士(1921-2015)は、素粒子論の世界における巨星であり、物理学の「予言者」とも呼ばれていました。 南部陽一郎のもっとも代表的な業績は「対称性の自発的破れ」の提唱です。この業績により、2008年にはノーベル物理学賞を授与されました。また、量子色力学もその源流をたどると南部のアイデアに行き着くことができます。これらは現在の素粒子標準理論の源流となります。さらに、南部の「ひも理論」は、さまざまなハドロンの質量や反応を説明するために導入された先駆的なアイデアであります。

南部陽一郎博士はシカゴ大学の教授でしたが、大阪大学との繋がりは深いものがあります。特に定年後は大阪府豊中市にも在住し、大阪大学の特別栄誉教授として「理学への招待」の授業を一部担当しつつ、理学研究科の素粒子論研究室に研究オフィスを持って研究を続けました。現在、理学研究科には南部陽一郎ホールがあり、入り口のエントランスホールには、ポスターと共にいくつかの南部陽一郎関係の物品がガラスケースに展示されています。また、南部コロキウムと呼ばれる分野を跨ぐ研究者の交流活動が活発に行われています。

1996年大阪大学第一号名誉博士
2006年大阪大学招聘教授
2011年大阪大学特別栄誉教授

南部陽一郎の研究オフィスは理学研究科H棟7階に保存されています。この部屋は素粒子論研究室が管理しており、南部陽一郎が亡くなるまで使用されていた部屋です。寄贈された書物やいくつかの遺品が展示されています(通常は非公開)。

参考

塩見政次(塩見理化学研究所)について

塩見政次
(写真:大阪大学アーカイブズ所蔵)

1916年、大阪市亜鉛鉱業株式会社専務取締役であった塩見政次は、当時の大阪医科大学長に塩見理化学研究所設立を託して亡くなりました。1931年に大阪帝国大学設置案が帝国議会を通過する際、塩見理化学研究所は40万円の寄附をおこない大阪医科大学蓄積金と併せて185万円が大阪帝国大学設立基金とされ、そのすべてが理学部創設費に当てられました(金額は当時のもの)。理学部創設にあたってはこの他に政府資金による援助は全く受けていません。その後、塩見理化学研究所自体も大阪大学に吸収されました。このように、 塩見理化学研究所なくして理学部設立はなかったと考えられます。

現在は、理学研究科G棟1階G103に塩見記念室があります。この部屋は化学専攻のセミナー室になっています。部屋の前方の壁にアクリルケースがあり、当時の「塩見理化学研究所」の銅版が入っています(通常は非公開)。

塩見理化学研究所外観
(写真:大阪大学アーカイブズ所蔵)

塩見理化学研究所と大阪大学理学部の源流に関して、詳しい情報は以下をご覧ください。